本当はシチューじゃなかった
結論から言えばシチューになるはずがなかった。作りたかったのはサーモンのムニエルとホワイトソースだった。しかしサーモンをただの鍋で焼いた瞬間に全てが破綻した。
サーモンの切り身は鍋のところどころに粘着し、ひっくり返す度にその身を崩した。原因は後で考察するとして、これでは「サーモンのムニエルとホワイトソース」という格好にはならない。
仕方がないのでホワイトソースがあるからシチューにした。
レシピ
本来ならサーモンに焼き目をつけ、そのフライパンでソースを作り、サーモンを戻して中まで加熱をするという算段だった。
しかしながらサーモンに焼き目をつける時点で身がボロボロに崩してしまって作戦変更を余儀なくされた。
材料
- サーモンの切り身
- タマネギ(さいの目切り)
- ブナシメジ(石突を切ってバラす)
- ホワイトソース
- ニンニク(みじん切り)
- 牛乳
- 塩
- こしょう
- 鶏ガラスープの素
- バター
調理
- 鍋にバターを入れて火にかける。
- 表面にでんぷん粉をはたいて、皮の側から先にサーモンを焼く。
- 失敗する。表面に焼き目をつけて、ボロボロになったサーモンを皿に移す。
- 鍋にバターを追加してタマネギを入れる。
- タマネギが色付いてきたらニンニクを入れて炒める。
- ニンニクが焦げる前にブナシメジを入れて炒める。
- ブナシメジの匂いが立ってきたらホワイトソースを加える。缶に残ったソースはお湯で溶いて加える。
- 弱火で加熱しながら、鶏ガラスープの素、塩、こしょうで味を整える。
- 皿に移していたサーモンを戻す。かき混ぜずに火を限界まで弱め、フタをして10分くらい待つ。
- サーモンがこれ以上ボロボロにならないようにそっとかき混ぜ、牛乳で段階的に好きな粘度まで調節する。
- 底を焦がさないようにしつつ程良く煮立てて完成。
コラム
今回はチャウダーと書くつもりだったけれど、シチューが適当だと思った。シチューがフランス由来で、チャウダーがアメリカ由来だという。シチューはチャウダーと比べると粘度が低く、具材が大ぶりで調理時間が長い。具の大きさで言えば今回はチャウダーだが、液体成分の粘度で言えばシチューだ。チャウダーといえば具材に二枚貝を使ったクラムチャウダーの方が有名である。
本来の目標を考えれば失敗したけれど、かなり美味しかった。失敗から立て直すのも料理の醍醐味の一つだろう。なんたって失敗は成功の母とも言う。父は誰だ。
とはいえ失敗は失敗である。味が良いにしても本来の目標に辿り着けなかったのは事実だ。サーモンの身が崩れてから計画が破綻した。材料の面から失敗原因を探ってみると、まずサーモンの脆さを言いたい。いわゆる切り身でムニエルに向くような形ではなかった。
いや言い訳だ。根本的な原因はサーモンに焼き目をつける際にバターを採用したことだ。
まずバターは焦げる。焦げるから高温にすることができない。温度が十分でなかったせいで、サーモン表面のたんぱく質が変性しきる前に鍋底面に接し、そのまま変性が最後まで進んで接着してしまう。
不手際は分かったが、そもそもなぜ接着してしまうのか。魚肉を形作るたんぱく質を考えると、解糖系酵素やミオグロビンなどの筋形質たんぱく質が原因だ。アクチンやミオシンなど筋原繊維たんぱく質とは違って、筋形質たんぱく質は変性するとゲル状になって固まる特性がある。それが鍋と魚肉を接着すると考えられる。
更に立ち返ると、なぜたんぱく質のゲルは金属表面にくっつくのだろうか。どうやら「タンパク質の金属表面への不可逆的な吸着にはタンパク質の酸性アミノ酸残基のカルボキシル基と金属表面のカチオン化した水酸基の間の静電的相互作用が大きく寄与している」らしい。かいつまんで言うなら、プラスに帯電している金属表面にマイナスに帯電しているたんぱく質の酸性アミノ酸残基が引き付け合うということだ。
酸性アミノ酸はグルタミン酸とアスパラギン酸のことで、これらはうま味の元である。要するに旨い魚はどうしてもフライパンにくっつきやすいのだろうか。
魚を焼く際にくっつかないようにする方法として油を敷いて高温にするのは分かった。しかしもう一つの方法がある。それはフッ素樹脂加工がされた調理器具を使うことだ。
フッ素樹脂加工の正体はポリテトラフルオロエチレン(PTFE)で、ポリエチレンの水素を全てフッ素に置き換わっているポリマーだ。PTFEで表面加工された調理器具はよく滑って焦げ付きがそうそうくっつかない。かなり便利な調理器具だ。鉄製のフライパンを油で慣らしてどうこうするより、一般家庭ではPTFE加工がされたフライパンを使う方が手っ取り早いだろう。
フッ素樹脂はなぜくっつかないのか。まずフッ素樹脂には極性がない。フッ素は電子を強く引き付けるが、PTFEでは双方向に引っ張ることで均衡がとれている。つまり電気的に偏りがないので、くっつきの機序から考えてみると静電的相互作用がなくなる。他にも炭素-フッ素間の結合が強固なことや、炭素の周りをフッ素が囲って求核試薬を寄せ付けないことも相まって弱いファンデルワールス力しか働けなくなる。だからフッ素樹脂加工されたフライパンはくっつかない。
フッ素は不思議な元素だ。たとえばグラム陰性菌にしか効かず組織移行性も悪かったナリジクス酸をベースに、ピペラジン環とフッ素原子を導入することでニューキノロン系抗菌薬はグラム陽性・陰性を問わず抗菌活性を示し組織移行性が大幅に向上した。
他にも吸入麻酔薬はフッ素化合物で、フッ素が毒性にも関与している。既存の医薬品の一部をフッ素に置き換えるだけでも効果や動態に大きな変化が起きたりする。医薬品とフッ素はなかなか深い関係があり、これからますます発展するだろう。
話をフッ素樹脂加工されたフライパンに戻そう。油で慣らす鉄製のフライパンとは違ってフッ素樹脂加工がされると消耗品だ。使っているうちに表面加工が剥がれて食材がくっつくようになる。せめて長く使いたいが、それには適切な手入れが必要だ。
まず汚れを落とすためといって研磨に近いことをしてはいけない。柔らかいスポンジで中性洗剤を使って優しく洗うべきだ。そもそもフッ素樹脂は低摩擦で非粘着なのだから力を入れずとも汚れは落ちるだろう。
次に急激な温度変化を避けるべきだ。フライパンとフッ素樹脂は接着剤でくっついている。金属製のフライパン本体と有機化合物のフッ素樹脂では熱膨張率が違うので、急激な温度変化で接着部に負荷がかかる。熱いフライパンは冷まして、あるいは待てないならお湯で洗う必要がある。
それでも消耗品の定めからは逃れられない。ダメになったら潔く捨てて新しいものを買うべきだ。安いフッ素樹脂加工フライパンをどんどん使い潰したっていいだろう。
ちなみに劣化で剥がれたフッ素樹脂は料理に混入すると体内に入るが、炭素-フッ素間の結合が凄まじく強固で安定なので体内で分解したり吸収されたりせずそのまま排泄される。つまりほとんど無害だ。
しかし分解物や微粒子を肺に吸い込むとそうもいかない。フッ素樹脂加工フライパンを空焚きしてしまうとフッ素樹脂が熱で分解し有毒な煙を発生させる。小鳥は特に弱いようで真っ先に死んでしまい、人間には咳や喉の痛み、発熱、呼吸困難などといったインフルエンザの様な症状を引き起こす。
吸い込んだPTFEの微粒子と熱分解産物が肺を刺激して炎症を引き起こすことが原因らしい。熱分解産物も微粒子も発がん性があるようでお世辞にも健康的とは言い難い。普通に料理をする分には危険な温度まで到達しないが、火にかけたまま寝たりすると危険だ。当然だが火を使っている最中はあんまり目を離してはいけない。
参考
魚の調理
魚肉のゲル形成に対する筋形質タンパク質の寄与
金属表面へのタンパク質の吸着とラジカル酸化洗浄
ふっ素樹脂とは
フッ素樹脂加工鍋の過燃焼にて発症したポリマーヒューム吸入による肺障害の1例